松山市考古館(埋蔵文化財センター)


 愛光のある大峰ヶ台西斜面を南にたどると、1キロ足らずの距離に、松山市考古館がある。前には池、うしろには山。春の花どきや秋の紅葉どきには、一幅の見事な風景画の中に治まっている。

 この考古館は1989年10月に開館した。パンフレットを引用すると、「内容、規模ともに四国一を誇る考古館。石器や土器、古照遺跡からの堰(セキ)など、旧石器時代から平安時代までのさまざまな出土品を収めた『常設展示室』、また館蔵品展や速報展などを行う『特別展示室』などがある。」

松山市考古館正面玄関
 私の正直な印象では、建物がすばらしいわりには展示物がやや少ない感じである。だが、客寄せのためのハッタリ的展示はなく、展示内容の質の高さを考えればやはり「四国一」と言えるのかもしれない。考古資料館の役割をも果たしていて、多くの資料が閲覧可能になっているのはありがたい。

 建物はたぶん銅鐸をイメージして設計されている。青銅色をした銅鐸の側面が正面玄関の屋根を形作っている。この不思議な屋根は周囲の豊かな緑に映えて、考古館にふさわしい、超越的な時空間を演出している。

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 考古館のすぐ前には広い池があり、そのそばに古墳時代の高床式建物が復元されている。
考古館前の高床式建物
その由来は1972年にさかのぼる。その年、考古館からほど近い古照(コデラ)地区で「古照遺跡」と呼ばれる遺跡が発見された。当時は、弥生時代の住居跡だと騒がれ、マスコミ総動員のもとで大きな期待を込めた調査が行われた。

 結果は、住居跡ではなく、古墳時代の堰の跡だとわかった。川の流れを変えて水田に水を流すための施設である。この調査結果によってセンセーショナルな話題に水が差されたのは事実である。おおかたの期待に反した結果であったのだ。だけど、それで古照遺跡自体の価値が下がったわけではなく、それどころか実は、マスコミが手を引いたあとに、付属的なさまざまな発見が相次いだ。

古照遺跡「堰」の復元模型
 遺跡から発掘された多くの種子から、当時の水田や畑作の実態が明らかになり、土器からは古墳時代における畿内との関係が明らかになった。さらに面白いことには、堰に使われていた木材が、当時の建物の廃材であったことがわかり、その切り込みの形状等から、当時の高床式建物の完全な復元ができたのである。これは建築史上きわめて重要な発見であった。

 その資料に基づいて実際に復元したのが、考古館の前の広場に作られているものである。食物等を貯蓄する倉庫のようで、2メートル×1メートルくらいの広さである。ネズミ返しのついたはしごが掛かっている。

 実は、松山市が考古館を作る計画を立てた直接のきっかけが、この古照遺跡の発見であった。最初は、「古照遺跡資料館」と呼ばれ、今の場所からは少し離れたところにプレハブで仮設されていた。それを本建築にしたのが今の考古館である。

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 「朝日谷2号墳」に関する展示も、考古館の目玉の一つになっている。朝日谷2号墳というのは、大峰ヶ台中腹から発掘された前方後円墳である。これは1989年、
松山市総合公園建設にともなう事前調査によって初めて発見された。全長25メートルの後円部が発掘、調査され、前方部はすでに失われているらしく、未発見、未調査である。

 調査の結果、前期古墳時代に比定され、松山平野最古の前方後円墳であることが明らかになった。松山平野および瀬戸内海を見下ろす高台に作られているという立地条件や、豊富な副葬品から見て、当時周辺地域を治めていた盟主的人物の墳墓であると考えられている。

朝日谷2号墳・斜縁二禽二獣鏡
 考古館発行のパンフレットによって、出土品を紹介しておく。

 まず、斜縁二禽二獣鏡(直径18.5cm)。「尚方作鏡大無傷 巧工刻之成文章 和以銀錫青且明 長保二親楽未央乎」の29文字の銘文が刻まれている。中国鏡である。破砕された状態で発見された。

 その他に、二神二獣鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣類が副葬されていた。

 さらに墳丘裾部から古代土師器がまとまって出土した。

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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp