自伝風エッセイ (6) 溶けていった夢
2010年8月5日
 自伝風エッセイを書こうと思い立ったとき、何はともあれ、父のことから書き始めないと治まりがつかないことに気づいた。それがなぜなのか。理由の一つが、今回の内容からわかる。

 いきなりその場面から始めてもよかったのだが、唐突感を緩和しようと思ううち、ついつい前段階の話が長くなってしまった。まあ、この後もしばらくは父の話が続くのではあるが、……。

 父の人生にはターニングポイントが大きく3つあった。そのうち2つは、他律的で、半ば強制され、挫折と諦念と悔しさをともなった転換点であった。両者とも、ぼくが生まれる前の話である。

 父の人生の転換が、その後に生まれてくるぼくを根源から規定しているのは明白である。ぼくを規定するというよりも、ぼくという人間の存在性そのものを規定すると言わないといけないのかもしれない。

 ぼくがぼくを思い起こし、ぼくがぼくを語るにおいて、父の人生転換をプロローグとして語らないわけにはいかなかったのである。

 今回の話は、第一のターニングポイントにかかわるものである。

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 昭和9年6月、父は1年半にわたる兵役から解放され、思い出に満ちた大邱の聨隊営門を後にした。当初の計画なら、このまま大邱にとどまり、どこかに安アパートを借り受けて、教員養成所に通うはずであった。

 教員養成所を終えた後の進路についても、例の村長との間ですでに約束ができていた。村の中学校の理科教師の席が用意されていたのだ。

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 ぼくが物心ついて以降、長きにわたって見知ってきた父を一言で言えば、器用さと創意工夫に富む職人であった。肉体を元手とした職人であった。人に雇われたことはかつてなく、自ら小さな事業を営み、最低限の人数を雇って物作りの仕事に専念する、職人の棟梁であった。

 そんな父に知的な関心があろうとは、数年前までぼくには想像もできなかった。

 知的な方面はもっぱら母が引き受けているというのが、ぼくの目から見た我が家の実態であった。

 だが、父が職人の道を我が道と割り切るようになったのは、昭和9年6月の帰省がきっかけであり、父は元来、知的な方面への興味と関心が旺盛であった。その受け皿が、教師への誘いであり、その誘いを一も二もなく受けたのがその何よりの証拠であった。

 父が生まれた村には、大学に進むなどという環境も発想も先例もなかったから、さすがに大学という道が脳裏をかすめることは一度もなかったはずだが、学ぶことの好きな子供であったのはたしかだろうと思う。

 北予中学時代の父の勉強がどのようであったのか、ぼくにはもはや知るすべはないが、朝鮮での兵役期間中、すなわち、事実上の看護学校生であったその期間中、父がいかに学ぶことに意欲を示し、熱心に勉強し、乾いた砂が水を吸うようにあらゆる知識を身につけていったかは、父がその期間中に兄の兼光に送った何通もの手紙を見ればわかる。(それらの手紙が、父の死後、ぼくの手元にもどってきた奇遇に感謝する。それがなければ、若き日の父の実相を結局ぼくは知らずじまいで終わるところであった。)

 「毎日熱心に学科に励んでいます。学科はぐんぐん先に進みます。知らないことを知るのは誠に楽しいものです。夜も遅くまでがんばっていますから、なかなか手紙を書くゆとりもありません」

 こう言いながら、父は相当数の手紙を兼光に書いた。

 ひょんなことから「ドクトル奥村」と呼ばれるようになり、名医とみなされてしまったことや、村長から医師として、あるいは教師として、強く誘いの手を差し伸ばされたことも、父の勉強好きの性格を傍証しているように思う。

 誘い云々の話よりも、父が学ぶことに強い意欲を示し、学びの先に拓けてくる道に大きな夢を抱いたことに、ぼくは涙が出るような近親性を覚えている。遺伝子の相同性を感じている。

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 9.11事件に端を発したアメリカのイラク攻撃。その激震が世界を駆け巡った直後、父は肺ガンを主因にして死んだ。おそらく父は、イラク戦争の勃発を知ることはなかったと思われる。91歳の誕生日を数日後に控えた死であった。

 父の死の幾日か前、まだ多少の意識が残されていたある日、父に食事を与えながら父の手のひらをぎゅっと握る偶然があった。そのとき、まるでグローブのように分厚くて、巨大で、固くて、それでいて艶のある手のひらに、ぞくっとするような戦慄を覚えた。父の手はこんなにも力強いものであったのか、こんなにも分厚く固い皮膚に覆われていたのか、こんなにも大きかったのか、これが死ぬ間際まで70年間にわたって働きをやめなかった職人の手のひらなのかと、不思議な感動がぼくの体を走り抜けた。

 幼い頃は別として、少なくとも中学校に入ってからは、父の手のひらに触れることなど一度もなかったはずだ。これはぼくにとっては、初めて知った父の手の感触と言い得る体験であった。

 職人として生きてきた父の長い人生に、あらためて深い畏敬に似た思いを寄せたのであった。

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 父の死後、青春まっただ中の父が書いた手紙類や、傘寿を越えてからひそかに書きためていた手記ノートを初めて目にしたぼくは、心の中に深く染みついていた職人一筋の父のイメージが、実は父の顔の片面にすぎなかったのだということに気づかされた。あの分厚い手のひらが物語る職人性の奥に、知的な仕事への夢が枯れることなく根深く底流していたことを知ったのだ。ぼくにとっては、まさにコペルニクス的転回とも言える大発見であった。

 父の若いころのアルバムを、子供時代に一、二度、手にして開いたことはあるものの、ある時期からはタンスの奥深くにしまわれたままになっていたため、ふたたび取り出して目にしたのは、やはり父が死んでからのことであった。子供時代には、それらが誰の写真なのか、いつの写真なのか、ちっとも理解できず、そこに二十歳代の父の姿が写っているとは考えもしなかった。

 父や母に説明してもらいながら写真を見た記憶もないので、おそらくは、テーブルの上に放置されていたアルバムをこっそり盗み見た体験だけが、ぼくとそのアルバムとの接点のすべてであったのかもしれない。

 ほとんど半世紀ぶりに、タンスにあったそのアルバムを繰ってみた。そして、そこに写し込まれている世界と、父の手紙や手記とを、さまざまに考証しながら重ね合わせてみた。すると、ぼくの知らなかった父の実像が驚くほど鮮明に立ちのぼってきた。

 父の表情の、何と知的で探求心に満ちていることか。職人として肉体労働に生きてきた、ぼくの知る父の人生と、写真の中の父の表情とには、面影の連続性があるのは当然ながら、何か大きな段差のあることも見て取れた。

 父がアルバムをタンスの奥にしまい込み、若いころの思いを秘め続けてきた理由が、ぼくにはおぼろげながら理解できる気がしてきた。

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 昭和9年6月、22歳になったばかりの父の大きな夢が、いっときの帰省のつもりで松山に帰ってきた途端、無残にも潰え去ったことを、今のぼくは知っている。しかも、そのことが、知的な興味と学びたい心までをも、手の届かぬ遠い世界に葬り去ったことも知っている。

 それがどれほどつらい体験であったのかを、子どもの頃、ぼくは父に何度も話して聞かされていたようだ。いま思い起こすと、そういう話だったとわかる。だが、子どものぼくには、父の話の真意がちっとも理解できなかった。あまりにも不可思議な話だった。

 父は、つらい体験を、実に間接的な表現で、比喩的に、深く秘めて話していたのだと思う。ぼくが話の真意をとらえそうになると、すっと話を別の方向にそらせるような、用心深い話しぶりであったのだと思う。自分自身を納得させるためだけの、独り言のような、つぶやきのような、曖昧な言葉を、父はぼくに吐き続けていたのだと思う。

 子供のぼくにはそれが一種神秘的に見えた。理解はできないが、不可思議で神秘的な話であった。そのことのために、話の意味が理解できていないまま、記憶としては、強く焼きついて離れない話となったのであった。

 三度、いやたぶんもっと多く、父はぼくに同じ話をしたように思う。

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 「父ちゃんは昔、朝鮮におってのう。学校の先生にならんかと言われとったんじゃ。そのまま向こうにおって先生をしとったら、清志は今ごろ、この世にはおらなんだはずじゃ」

 まずもってここで、ぼくの頭は混乱に陥れられた。「ぼくがおらん? だって、ここにおるじゃないか」。

 この強烈なパラドックスが、子供のぼくを惑乱した。子供にとっては、自分という存在に根源的な始まりがあると理解することが、すでに相当に難しいのである。自分が自分を意識したときには、すでに自分は無条件的に存在していたわけで、その事実は、無限の過去から存在していたという事実と等価なのである。自分は絶対的に在るものなのだ。

 ところが、父は、「ぼくはいないかもしれない」という。「自分がいない」という状況を想像することは、ぼくには大変な恐怖であった。現にここにいる自分が、どうして「いない」という状況になりえるのだろう。

 ぼくの頭は混乱してしまった。

 父は、最初の一撃でぼくの頭を惑乱しておいて、さらに続けた。

 「父ちゃんは朝鮮から松山に帰ってきたんじゃ。そして先生にはならなんだんじゃ。それで母ちゃんと結婚して、清志が生まれたんじゃ」

 よくはわからないが、ふーん、そうか、と思う。

 「父ちゃんがもしあのまま朝鮮におったとしたら、母ちゃんとは別の人と結婚して、清志の代わりに別の子供が生まれとったはずじゃ」

 じゃあ、ぼくの代わりに別の誰かがいるということなの? ぼくではないその人にとっての「ぼく」は、このぼくなのだろうか、別のぼくなのだろうか? 体はぼくではなく、心だけこのぼくである別の人がいるのだろうか。

 考え出すと、頭の中を終わりのない渦がぐるぐると回り始めた。

 母ちゃんと結婚したからぼくがいる、というのも、ぼくにはよくわからない。とにかくわからないことだらけの話だった。

 実は父は、この話をしているときにはいつも、「朝鮮で先生になる」という夢を奪い取られた悔しさに泣いていたのではないかと思う。ぼくの頭が混乱している隙をうかがって、「もし帰ってこなかったら」という言葉を何度もつぶやいていた気がする。

 「あのまま向こうにおったら、学校の先生になり、別の人生が拓けていたんじゃ」、父は何度もそう自分に語りかけ、やり直しのきかない人生の非情を泣いていた気がする。

 「清志はこの世にいないかもしれない」という得体の知れない呪文のような言葉は、ぼくが父の悲しみに気づくのを予防する目くらましの作戦だったのかもしれない。

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 ともあれ、父は、「おやじに顔を見せる孝行をしておけ」という兼光の手紙に心を揺すられ、ほんの短期間のつもりで松山に帰省したのであった。村長には、「ちょっと郷里に帰ってきます。またすぐに戻ってきますから」と、簡単な挨拶だけをして別れた。それが永久の別れになるとは、まさか思ってもいなかった。

 松山で父を待っていたのは、兼光が起こそうとしていた下駄工場であった。兼光の仕事は、下駄の卸と小売りで十分に繁盛していたのだが、さらなる事業の拡大をめざして、下駄の製造までをも始めようとしていたのであった。廃業した織物工場を松山近郊に買い求め、そこに下駄の製造機械を設置したのだった。

 父が帰ってくると、さっそく、「一緒にやろう」と持ちかけた。必ずしも父の帰省を当て込んで工場を作ったとは、今のぼくは考えていない。だが、そうとしか思えないタイミングで工場を立ち上げようとしていたのも事実だから、ひと頃までぼくは、「親孝行をしろ」という兼光の手紙は父を呼び戻すための手管、悪く言えばだましの文言だったのではないかと勘ぐっていた。しかし、今はそうは思っていない。

 なぜなら、兼光はすでに経験ある下駄職人を雇っており、父がいなかったとしても工場を立ち上げられる準備を整えていたのだから。

兼光は言う。

 「ワシは販売を担当するから、お前は工場の責任者になって、製造を担当してくれ」

 さらに、

 「なに、お前の力なら、下駄の技術もすぐに覚えられるよ」

 父が、何もないところからそれは無理だと抵抗すると、

 「吉川さんというベテランを雇っているから、その人から技術を習えばよい。お前は工場長だが、しばらくは見習いだ。そのうちお前の技術が吉川さんを追い抜くだろう」とも。

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 父がこの誘いになぜ「否」と言えなかったのか、普通の感覚からはいかにも不思議だが、ぼくにはその理由がよくわかる気がする。

 一つには、入り用な一時金を無心したときの手紙に、教員養成所のことや、教師になるよう要請されていることには、いっさい触れなかった。抽象的な表現で済ませてしまった。これがつまずきの元であるのはまちがいない。

 だが父は、一時的にしろ松山に帰ることになるだろうとは考えてもいなかったのだし、帰ったとしてもそこに新しい仕事が待っているだろうなどとは、夢にも想像していなかったのだから、具体的な話は入学して学び始めてからゆっくり書き送ればよいと、気楽に考えていたのであろう。

 兄さんには内緒にしておいてあとで驚かせてやろうと、茶目っ気を起こしたことも十分に考えられる。

 それにしても、面と向かって兄に誘われたとき、なぜ朝鮮での事情を話して断ることができなかったのだろう。疑問は相変わらず残る。

 お金を無心した弱みがあるとか、十代最後の二、三年を兄の店で働いていたとか、そうした具体的なしがらみが原因であったとは、ぼくには思えない。

 そこにあるのはもっと深い人間的なつながりである。父は兄の兼光に対して、いつからとはぼくには定かに言えないのだが、深く心酔し頼る心が芽生えていた。父親以上に兼光を敬慕し、寄りすがる意識を強くもっていた。お金の無心の手紙を、父親にではなく、兼光に書き送ったのもそれ故であった。

 このような、弟が兄に寄せる深い敬慕の思いは、ややもすると主君と家臣の関係のような、従属的な心の作用を生む可能性を秘めている。敬愛する主君の命に逆らえない家臣の忠義心とでもいったものが、弟が兄に寄せる思いの中に生じないとは言えない。

 一対一の対等な心の関係は、すでに何年も前から父と兼光の間には存在していなかったのかもしれない。寄りすがる者と絶対的権威者の関係、と言ってしまうと言いすぎだろうが、父の抱く深い敬愛の念は、ある種のブラザーコンプレックスとでも言える段階に進んでいたようにぼくには思われる。網にとらえられて抵抗できない小鳥なのであった。

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 もし、兼光からの誘いが手紙の形態を取っていたとすれば、おそらく「否」の返事を書くこともできたと思われる。しかし、顔と顔をつきあわせて誘われれば、もはや父には抵抗のしようがなかったのである。朝鮮での事情や、深く心の内に秘めている夢は、語り出せば、自分を思って誘ってくれている兄の心を傷つける刃になるだろう。それが父にはつらかった。

 兄の心に葛藤を起こさせ、兄を苦しめるくらいなら、自分のうちにそっと秘めたままにしておいた方がよい。兄を動揺させるくらいなら、自分一人の悲しみとして、耐えて泣く方がよい。

 まさにブラザーコンプレックスそのものとも言えるこのような発想は、普通の人には理解しがたい心理かもしれないが、ぼくには痛いようによくわかる。

 兄が自分のためにと考えて用意してくれた将来性ある仕事を、自分の小乗的な都合だけで断ることはとてもできなかったのである。

 父は一夜のうちに決心した。そして、気持ちが揺らがないうちにと、すぐさま、村長に断りの手紙を書き、教員養成所にも入学取り消しの手紙を書いた。

 涙が紙面をにじませないよう気遣いながら、流れるような字体の父には珍しく、一字一字丁寧に断りの筆を運んだ。

自伝風エッセイ (7) 下駄工場から赤紙へ
2010年8月11日
 父には、看護という仕事がよほど性に合っていたのだろう。看護においては3つの要素が混じり合い、そのどれもが父の本性と流れを一にしているようにぼくには思われる。

 一つは、手先の器用さを含む技術的要素。職人的要素と言ってもよい。父が得意とするところであった。看護において、技術の優劣は、患者の生死をも左右しかねない大事な要素であろう。

 二つ目は、専門知識と探求心。父に先端レベルの研究ができるはずもなかったが、学び、知るというレベルの知識に対しては、父は旺盛な吸収意欲を示した。看護の基礎知識を学ぶ中で、学ぶという知的行為の楽しさに目覚め、それが自分の本性に沿っていることに気づかされたのだと思う。可能ならば、さらに深めて学びたいという意欲をも感じるようになった。

 学んだ知識が生かせる看護の仕事は、父にとって心からの喜びであった。

 三つ目は、人との交わり。父は陽気で人との交わりを好む性格だった。話しがとにかく好きだった。その方面では、ぼくは父からの血を、遺伝的にミニマムなレベルでしか、受け取らなかったらしい。ぼくはもっぱら母の血を受け継いだようだ。内面に志向していき、外に向かっては自分の存在を主張しない母の血を。

 ともあれ、ぼくが直接見知っている父の仕事場風景には、常に仕事上のさまざまな人たちとの愉快な会話がBGMのように流れていたのを思い出す。

 父のもつ人との交わりの力は、看護という仕事においても大いに役立つだろう。いや、それ以上に、不可欠な要素となるはずである。技術と知識だけで患者に向き合ったのでは、看護ロボットにすぎなくなってしまう。

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 学ぶことへの父の一種の目覚め。それが中学校の教師になるよう要請されたとき、とっさに「はい」と返事をした動機の源泉であった。

 汚れのない純粋な動機であった。だがそれは十分に練り上げられたものとはいえず、あまりにもうぶで柔らかすぎた。外圧を跳ね返す力を持ってはいなかった。

 父は兄の兼光から下駄工場で働くように話を持ちかけられたとき、準備万端整った固い甲羅の計画と、赤子の柔肌のように現実味に乏しい自分の計画との差異に圧倒され、朝鮮から秘め帰った熱い思いを打ち明けることさえできないまま、兄の手のうちに身をゆだねることになったのであった。

 父には、知的な仕事への好奇心に匹敵する、技術的な仕事への傾斜が内在していた。

 「それはそれで面白いかもしれない」

 割り切って、いったんそう思い始めれば、純粋で切ない憧れであった夢を、うぶな幼さとして捨て去る現実主義を、父は受け入れることができた。

 涙なく受け入れたわけではない。抵抗なく受け入れたわけでもない。

 しかし、少なくとも、強制労働に駆り出されるような心境に立たされたわけでもなかった。新しい技術を学び、そこに自分らしさを付加する余地があるのなら、それはそれでやり甲斐のある楽しい仕事になるのではないか。そういう意識が、涙をぬぐいつつも、着実に燃え上がっていたのは事実であった。

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 父はこうして、人へは秘めた悲しみの涙が乾かぬうちから、下駄工場の仕事に身を置くこととなった。工場には、吉川さんというベテランの職人がいた。兼光がどこかよそから引き抜いてきた人であった。四十見当の穏和な人だった。

 木材の切り出し、整形、磨き上げなど、木工にかかわる仕事が吉川さんの主な仕事であり、それに続く、漆塗り、鼻緒の取りつけなどの工程のために、今で言えばパートの女性が何人も雇われていた。仕事はすべて吉川さんが手ほどきしていた。

 父も見様見真似で吉川さんの仕事を覚えた。

 兼光のもつ販売力に、時代の流れが下支えをして、需要はどんどん拡大した。たちまち機械の増設が必要になり、パートの女性も数を増した。父は工場長として、設備や人事に対処しながら、技術面でも吉川さんから学び、下駄作りに没頭する毎日となった。

 一年ほどして、下駄の仕事の全体像が見えてきた頃、父は安くて履き心地のよい、新しいデザインの下駄を考案した。販売網に乗せると、飛ぶように売れ、仕事はますます活況を呈していった。

 町を歩くと、一目で自分の下駄だとわかる下駄が、あちらでもこちらでも、カランコロンといい音を立てて行き交っていた。気恥ずかしいような、面はゆいような気持ちになった。

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 工場の前身は小さな織物工場だった。廃業していたそれを兼光が買い上げて、下駄工場に改造したのであった。織物工場のさらに前身は、木造二階建ての三軒長屋であった。

 大正初期に民家として建てられた三軒長屋が、大正末には織物工場に変身し、それが昭和の恐慌のあおりで倒産した後、下駄工場に生まれ変わったのであった。

 三軒のうちの二軒が工場になっていた。どちらも一階部分の床がそっくり取り払われてだだっ広い土間とされ、二軒を仕切る壁の一部もくりぬかれていた。二軒で一つながりの工場に仕立てられていたのだった。

 工場として使われていない一軒には、父が住んだ。独身者には広すぎる空間だったが、他に使いようもなかった。工場棟の二階は、事務室や従業員の休憩室、さらには倉庫として使われた。

 後にぼくが生まれたのも、三軒長屋のこの居住棟だった。昭和23年2月のことである。ただし、ぼくが工場に住んでいたのは2歳の誕生日のころまでだから、ぼくの記憶に工場のイメージはまったく残されていない。いや、かすかに一つだけ、居住棟の記憶があるといえばある。ただ、それが、実際に住んでいたときの記憶なのか、後に父と母がぼくを連れて工場を訪れたときの記憶なのか、そこのところが定かでないのだ。

 居住棟の奥の部屋には縁側があって、小さな裏庭に面していた。ぼくのまわりに大人が何人か座っていて、ぼくが縁側の方に歩いていくと、「ほらほら、危ないよ」と、縁側の縁で誰かがぼくを抱き留めた。

 記憶はそれだけである。記憶の中でのぼくの歩きぶりが、何だかちょっとよちよち気味なので、ひょっとするとそれは、2歳になる前の、ということは工場に住んでいた頃の記憶なのかという気がしないでもない。もしそうだとすると、ぼくが原初的記憶だとして確信している、新しい家に引っ越した直後の記憶よりも、それは古いということになる。証明の手立てがないのが残念だ。

 ぼくが今知る工場のイメージは、わずかに残された外観写真と、父や母、さらには叔母から聞かされた話に基づく。ぼく自身の目で、下駄作りをしている工場の賑わいを見た覚えはまったくないのである。

 工場は、ぼくがまだ3歳にならないうちに、失火で焼けてしまった。戦災での消失を奇跡的に免れたにもかかわらずである。戦災を免れたのは、落ちた焼夷弾がたまたま不発弾だったという、偶然の一事による。

 失火で跡形もなくなってしまったことで、工場は、後に物心ついたぼくが目にしたくとも、かなわぬ存在になってしまった。

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 下駄工場は、父が朝鮮から帰省した昭和9年の夏、順調に船出したのであった。一年後には、父の考案した新しい下駄が飛ぶように売れ始め、事業は飛躍的に拡大していった。

 工場が順風満帆に大海を渡っていた、ちょうどその頃、日本は戦争への道を真一文字に進み始めていた。昭和7年に満州国を作り上げた日本は、父が朝鮮にいた昭和8年には、満州と中国の国境地帯にある熱河地方に軍を派遣して占領し、さらには国際連盟からも脱退した。これが奈落への道だと知る人は少なかった。

 流れはとどまるところがなく、昭和12年、ついに中国との間に全面戦争が勃発した。日華事変である。宣戦布告なき戦争であった。7月に北京郊外の蘆溝橋で衝突が起こった後、8月には戦火は上海に飛び火し、上海市内および郊外で、壮絶な戦いが繰り広げられた。

 父に赤紙が来たのは、戦いが上海に飛び火した直後の、昭和12年8月下旬であった。行き先は上海の前線。看護兵とはいえ、まさに死地に向かっての旅立ちであった。

 突然の赤紙に、父は大急ぎで工場を吉川さんと兄の兼光にゆだね、まるではぎ取られるように前線に連れ去られていった。

自伝風エッセイ (8) 上海へ
2010年8月17日
 昭和12年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で日本軍と中国国民党軍が銃火を交えた。蘆溝橋事件である。最初の種火はさして大きいものではなかったが、それはあっという間に燃え広がり、7月28日には華北で、8月18日には上海で、大規模な戦いが引き起こされた。両国は宣戦布告のないまま、事実上の全面戦争に突入したのであった。

 上海では、対峙していた日本の海軍陸戦隊と中国国民党軍が局地的な市街戦を始めたのが最初だった。だが、それを待っていたかのように、日本は直ちに大規模な上海派遣軍を組織し、8月22日には、第一陣が揚子江から上海に上陸した。中国側の反応も敏速で、すぐさま国共合作(第二次)を成立させ、八路軍が戦いに参加した。

 戦線は上海郊外へと拡大し、またたく間に上海は日中両国が総力を挙げて戦う一大決戦の場と化していった。第二次上海事変である。

 陸戦隊が上海で市街戦を始めたことが日本国内で話題になり始めて間もなく、父に赤紙が届いた。受領したのはおそらく8月20日頃だったと思われる。集合場所は香川県善通寺の砲兵隊、集合期日は8月28日であった。

 父母、兼光夫婦、妹、弟に見送られ、父は松山駅から善通寺へと旅立った。25歳。力漲る独身青年であった。

 「工場のことは心配するな。吉川さんと俺でやっていくから。銃後を気にかけず、思い切って戦ってこい。」

 プラットフォームで出発の汽笛が鳴るのを聞きながら、兼光は大きな声でそう言った。

 吉川さんは、父が最初に技術を習ったベテランの下駄職人である。自分を曲げぬ頑固一徹な四十男であった。柔軟な発想や新奇工夫の才にはやや欠けるものの、技術は正確で安定していた。父は仕事をしながらよく冗談を言い、若い職人や女工は腹を抱えて笑ったものだが、吉川さんの口がゆるむことはなかった。

 時を隔てた終戦後、父が下駄工場を去ることになったきっかけは、吉川さんに絡む人間関係であった。そのことについては、また後に語ることがあるだろう。

 兼光は、いよいよ別れだという最後の瞬間、父の耳元でささやいた。

 「生きて帰るんだぞ。お前の将来はまだまだこれからなんだからな」

 兼光が父の肩をたたくと、そばで義姉の芳子が涙を浮かべた。父が兼光に寄せる無限の信頼はそのまま、芳子への思慕の念へと移行していた。芳子は父にとっては実の姉のような甘やかな存在であった。

 「さようなら、姉さん」

 デッキで頭を下げながら、ひょっとしたらこれが見納めになるかもしれない芳子の涙顔に、父は、声には出さず別れを言った。

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 善通寺の兵営に到着すると、ただちに第一野戦病院に配属された。翌朝からは、病院器材や薬品などの荷積み作業が待っていた。万端整った8月31日の朝、父を乗せた輸送船は詫間港を離れた。

 乗り込んだ兵士の多くは戦闘員であり、父たち看護兵はわずか数十名にすぎなかった。重装備の戦闘員と違い、看護兵は身軽であった。重い銃が肉体の一部と化している兵士たちを船倉の奥に見やりながら、父はつくづく我が身の軽さに感謝した。

 出航した船は関門海峡を抜け、博多沖に停泊した。いっこうに動く気配がないため、甲板に出てみると、輸送船が次々に集結してくるのがわかった。護衛の軍艦の数もおびただしい。見る間に、二十数隻の輸送船と十隻の護衛艦からなる大船団となった。

 博多沖に二日ばかり停泊した後、ようやく船団は動き出した。一列に並んだ輸送船の影は遠く水平線まで続いている。前後左右を護衛艦が囲み、堂々たる威容に父の心は思わず高ぶった。

 島影の見えなくなった東シナ海はおだやかで、水平線は紺碧の空に溶けていた。夏は果てようとしていた。ときおり吹く心地よい海風がそれを物語っていた。あまりの心地よさに、甲板でうとうとしていたとき、父は夢を見た。夢は戦場に向かう現を離れ、カモメのように空を飛翔した後、朝鮮で学んだ楽しかったあのころへと降り立った。

 村長と交わした約束が思い出された。未来が神々しく輝いたあの場面が、蜃気楼のようにゆらゆらと目の前に映し出された。

 だがそれは、届かぬ世界であった。手を伸ばすと、すっと遠のいた。ちらちらと火影が揺れる幻影にすぎないことがわかった。

 戦友たちのざわめきで目が覚めた。傾いた太陽が顔面を直射し、その先にシルエットのように、兵士たちがデッキに鈴なりになっているのが見えた。イルカの群れが船を囲んでいるのだという。手を振り、「おーい」と呼びかける者もいる。死地に向かう兵士たちの、いっときの平和であった。

 二日ばかりして、海が変色してきたのに気がついた。どこまでも澄んで青かった海が泥色に濁ってきた。

 きっと揚子江から流れ出た濁流に違いない。いよいよ上海だ。

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 海の色がみるみる変化していった様子を、ぼくは子供時代、父から何度聞かされたことだろう。はじめはまるで潮目のように、色の違いがかすかな帯となって遠くに横たわっていた。船が進むにつれてそれはどんどん近づいてきて、気がつくと、船はすっかり泥の海に呑み込まれていた。

 抗うことのできない強い力によって、銃火飛び交う地獄の底へと引き立てられていく宿命を、初めて強く意識したのが、海の色の変化に気づいた瞬間であった。ロゴスにはよらず、絵画的イメージによって父はそれを直覚した。処刑台を前にした死刑囚のような、森厳とした覚悟であった。

 父がこれを語るとき、視線はいつも遠い過去を見つめているのを、ぼくは知っていた。あの日あのとき、輸送船の甲板から見たあの泥の海の混濁した泡を、父はありありと現実の空間の中に思い浮かべていた。

 ぼくはこの春、上海を旅し、たまたま飛行機の窓際の席が取れた幸運により、父が見たあの海の色の変わり目を眼下に見下ろすことができた。揚子江の濁流が東シナ海へと流れ出たそこには、扇形をした画然たる境界線が引かれていた。

 「あっ、これだ」

 ぼくは心の中で叫んだ。グラデーションのない、くっきりとした一線であった。土色の海と紺碧の海とが互いを排して並存する、神秘のコントラストが眼下にあった。

 この不均衡こそが、父に森厳な覚悟を啓示した神の手であったのか。子ども時代、父が繰り返しぼくに語り続けたあの不思議な変色地点を、今ぼくは眼下にしている。まさに今その上を飛んでいる。父の世界にぼくは戻ってきたのだ。

 かつてそこを進んだ父を乗せた船、点にしか見えないであろうその船、その船影をまさぐるように、ぼくはただじっと感動の高まりに身をまかせて瞬きもせず、飛行機の小さな丸窓から見える世界にひたっていた。

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 命はもはや波間を漂う一片の枯れ葉にすぎなかった。浮沈の運命は弾丸の軌道という、避けようのない偶然の手の中にある。あまりにも軽い人間の命。泥の海を進みながら、父は、はるかなる人類史の中で、戦さに散っていった幾百万、幾千万の兵士たちの厳粛な覚悟と向き合った。自分もまた、彼らと同じく、戦いの女神の下で砕け散ろうとしているのであろうか。

 船団は揚子江を上り始めた。両側に岸が遠望できることで、川を上っていることがわかった。はるかに霞んだ右側の岸は、実は対岸ではなく、揚子江に浮かんだ中州にすぎないことを後に知った。

 しばらくすると、上空を戦闘機が何機も旋回し始めた。日本軍機だ。自分たち輸送船団の警護に当たっているとのこと。戦闘地帯に入ってきたことが、空気の緊張となって伝わってきた。

 こうして、昭和12年9月5日午前8時、父を乗せた船は揚子江岸の港町、呉松(ウースン)に停泊した。呉松は、上海市街を貫いている黄浦江が揚子江に流れ込む河口に位置している。現在では上海市の一部である。

 戦いが間近で行われていることは、教えられるまでもなくわかった。絶え間ない大砲や迫撃砲、小銃、機関銃の発射音が、船内にまで雷鳴のようにとどろいてくる。それはもう音というよりは、腹の底を揺り動かす激しい振動であった。

 その日は下船命令が出なかった。緊迫した中を、不安と緊張におののきながら、なすことなく過ごした。将棋や花札で気を紛らわせる兵士たちもいた。

 日が落ちた。夜になると、赤い砲火が船からも肉眼で確認できるようになった。両軍が対峙する前線が、砲火の列となってくっきりと識別できる。呉松を扇の要とした放射状の前線が構築されているらしい。遠く南西方向には、上海市街が赤く燃えていた。日本軍機による空爆によるものらしかった。

 やがて、首にいくつもの水筒をかけた兵士が、水をもらいに船までやって来るようになった。戦友の分まで首にかけているのである。次から次へと船に駆け上がってくる。彼らは水をもらうと、バネ仕掛けの人形のように、重い水筒を全身につるしてまた慌ただしく駆け下りていく。

 父は水汲みを手伝いながら、一人の兵士に声をかけた。

 「前線はどんな様子ですか。」

 「それはもう地獄ですよ。極楽なのは船内にいるうちだけです。船から下りたら地獄ですよ。毎日毎日、次々と兵士が送り込まれてきて、次々に死んでいくのです。補充しても補充しても、ばたばた死んでいくのです。」

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 翌朝、ついに下船命令が出た。戦闘員たちは地獄の前線に向け、隊伍を組んで行進していった。父は見送りながら、昨夜の話を思い出さずにはいられなかった。彼らは明日の、いや今日の命すら保証されない、生身の肉弾補給要員であった。

 父たち野戦病院部隊は彼らを見送ると、前線から4,5キロ後方にある月浦鎮というところに野戦病院を開設した。小学校を借り上げた建物であった。校庭にもテントを張り並べた。

 この小学校が、その後二ヶ月あまりにわたる父の不眠不休の奮闘の場となったのである。

 日中両軍は互いに一歩も引かず、凄惨な戦闘を繰り広げた。11月中旬まで膠着状態は続いた。その間、野戦病院は一度たりとも移動することがなかった。そのことが、大量の負傷者、戦死者を出しながらも両軍が踏ん張り通して戦線が膠着していた、何よりの証拠である。

 日本側だけで、戦死者は1万人、負傷者は3万人あまりだったという。中国側はおそらくそれを越えているだろう。戦史に残る凄惨な大激闘であった。

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 ぼくがこの春の旅行でぜひ行ってみたいと考えたのは、この月浦鎮の小学校であった。当時の小学校がそのまま現在まで小学校であり続けている保証はないが、一応そうだと仮定して、事前にグーグルアースで見当をつけていた。

 呉松からやや北西に月浦鎮という地名が確認できた。「……鎮」はおそらく日本でいう「……町」であろう。よく見ると、その付近にたしかに小学校らしき名の施設がある。これが当時第一野戦病院が借り上げた小学校であろうか。他にそれらしき小学校が見当たらないから、可能性は濃厚である。

 小学校は縦横に走る小運河のそばにある。父の話によく「クリーク」という言葉が出てきた。この運河がそれにちがいない。グーグルアースで見る限り、両岸はコンクリートで固められている。しかし、当時はおそらく両岸には草が生い茂り、クリークの名にふさわしい自然感あふれる掘り割りであったのだろう。

 前線からの負傷兵は夜陰に紛れて続々と、運河に架かる橋を渡って運ばれてきたのであろうか。南からにしろ、西からにしろ、運河に架かる橋を渡る以外に小学校に到達する道はなさそうである。

 グーグルアースを眺めていると、もうそれだけで、ぼくは当時の父の様子を彷彿することができた。

 近くには、レンガ造りの小さな民家風の無数の構造物が並んでいる。しかし、これらが父がいた頃からのものなのかどうかはわからない。戦後、市街地の拡張にともない、住宅が郊外に広がってきたと考えた方が自然である。

 子どもの頃に聞いた父の話を思い起こしたとき、野戦病院が民家の密集地にあったという印象をぼくは受けた覚えがない。月浦鎮は一つの集落ではあったろうが、学校の周辺は基本的には田畑であったはずだ。前線も田畑の中にあった。泥のような田の中に身をひそめながら兵士たちは戦ったのだ。身を隠してくれるものは唯一稲穂だけであったと、父から聞いた。

 ぼくは自分の足でかつての小学校に立ち、自分の目でその校庭と校舎を見、父が働いた当時の姿をまぶたの奥に想像してみたい。校舎はおそらく建て替えられているだろうが、それはそれでよい。

 これがぼくの願いであった。死んでちょうど7年になる父への供養にもなるだろう。

自伝風エッセイ (9) 野戦病院
2010年8月26日
 昭和12年8月18日、上海で市街戦が始まると、たちまちそれは日中両国の総力戦へと突き進んだ。第二次上海事変である。この戦いに父は看護兵として動員された。生まれて初めて戦争のただ中に足を踏み入れることとなったのだ。

 9月5日の朝、父を乗せた輸送船は呉松に着いた。船内で一昼夜をすごした後、翌朝下船し、呉松から直線距離にすると北西に7,8キロのところにある月浦鎮という村に向かった。その村の小学校に野戦病院を開設することになったのだ。

 船に積んできた病院器材や薬品類はすべて軍用トラックで運んだため、看護兵は自分の身の回りの品を背嚢に背負って行軍するだけであった。

 途中の道ばたで、父は、中国人の死体が方々に散乱しているのを目にした。日本軍が逃げ遅れた民間人を撃ち殺したらしい。クリークにも中国人の死体がいくつも浮かんでいた。そういえば、停泊していた船の中でも聞いた。

 「揚子江をさかのぼっていたとき、近づいてきた支那の漁船を護衛の軍艦が拿捕し、乗っていた漁師の首を即刻はねてしまった」

 と。戦争という狂気がいきなり現実となってのしかかってきた。身の引き締まる思いがした。

 日本兵の死体にもいくつか遭遇した。前線からは数キロ後方だが、迫撃砲の射程距離には入っている。前線に向かう行軍途中で倒れたのだ。戦友が間に合わせに土をかぶせ、鉄兜や鉄砲をそばに置いていた。哀れを誘う光景であった。

 戦争とは、人の死に無感覚になること。父が戦場に足を初めて踏み入れたこの日、強い衝撃をもって知らされたのはこのことだった。

 呉松から南に10キロあまり離れた上海市内では、黒煙が天を焦がしていた。日本軍機の爆撃によるものらしい。行軍しながら看護兵は互いにささやきあった。制空権は明らかに日本側にあり、空を中国軍機が飛ぶのを見かけることはなかった。

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 小学校に着くと、直ちに野戦病院の設営が開始された。

 小さな小学校だった。校舎といっても教室が3つと、職員室を兼ねた事務室があるだけ。患者の収容には手狭なため、校庭にテントを張り並べて病院にした。何十ものテントが校庭に並んだ。手術室となるテントには、組み立て式の手術ベッドが設置され、手術器具や薬品が収納された。患者用テントにはベッドはない。地面に直接マットを敷き、その上に寝かすのである。

 教室は軍医や看護兵の居室として使われた。父たちの野戦病院には、5名の軍医と、50名ほどの看護兵がいた。教室2つが看護兵に割り当てられ、もう1つは軍医の居室となった。事務室は施錠したまま、使われることはなかった。

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 大急ぎで設営を終えると、一休みする間もなく、夕方からは早くも負傷兵がどんどん運ばれてきた。負傷兵の搬送は、明るいうちは危険なため、日が落ちてから夜陰に紛れて行われるのだ。担架を担いできた戦友は、地面に負傷者を寝かせると、ただちにとんぼ返りで帰っていく。まるで姥捨て山のような光景がひっきりなしに繰り返された。

 さっそく、その夜のうちに手術が始まった。

 父が属した手術チームは、軍医1人と看護兵4人。

 手術が一つ終わると、手術チームはテントの外に寝かされている負傷者を見て回り、緊急性が高いと思われる者を選び出しては、手術室に運んで手術をする。これを、明けても暮れても延々と繰り返すのである。

 負傷者の大半は、腹部や手足の貫通、または盲貫銃創である。盲貫銃創とは、弾が体内にとどまっていること。貫通は、弾が通り抜けてしまった状態のことである。

 頭部や胸部を撃たれた兵士はまちがいなく即死するので、そもそも病院に運ばれてくることはない。

 腹部被弾の場合は直ちに切開し、弾があればそれを取り出し、内臓の傷んだ部分を切除し、傷口を縫合し、内臓を元の位置に押し込み、腹を閉じる。

 手足の被弾は、腹部被弾に比べると単純だ。盲貫銃創なら切開して弾を取り出し、消毒して傷口を縫い合わせればよい。

 ときには、手足を切断することもあった。骨が打ち砕かれている場合や、ガス壊疽にかかっている場合である。

 歩兵は泥の稲田の中を匍匐前進で移動しながら戦っているから、手足を銃弾にやられると、傷口からガス壊疽菌が入ってくる。化膿して、夜を待って運ばれてくるまでには症状がかなり進行していることも多い。「ガス壊疽」という名の通り、まるでガスが発生したように皮膚の下がぶよぶよになっている。切断しないことには、全身が腐って命を落とすこと必定である。

 このようなときも、切る前には必ず本人の承諾を得ることになっている。ところが、重傷の場合には本人の意識がなく、耳元でいくら呼びかけても反応しないことがある。放って置けば死んでしまうので、軍医の判断で、手足を切断した。

 手術後、目をさまして、「手がない」、「足がない」と泣き叫ぶ者もいたという。

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 そのような患者の一人に、京都でふすま絵師をやっている人がいた。二十歳代後半の、新進気鋭の絵師であったようだ。こうした将来有望の芸術家ですら、容赦なく戦争にとられ、絵筆の代わりに銃をもたされる時代であったのだ。

 その絵師は、動員されて前線に送られてくると、わずか数日で右腕に銃弾を受けた。出血多量で意識を失い、その上、半日以上も泥田の中に放置されていたため、傷口はガス壊疽菌でぶよぶよに腐っていた。病院に運ばれてきたときには、昏睡状態であった。

 呼びかけても応えないため、軍医は右腕を、わずか5センチほど残して切断した。ところが手術から数時間後に絵師は奇跡的に意識を取り戻した。そして叫んだのだ。

 「右手がない」

 父が言った。

 「あなたの右腕は銃弾が貫通し、戦場の田んぼの中でガス壊疽にやられて腐りかけていました。そのまま切らずにおけば、全身にガス壊疽菌が回って、あなたの命はなかったでしょう。私が何度も耳元で『切ってもいいですか』と呼びかけたのですが、あなたの意識はすでになく、返答しませんでした。だから、われわれの判断で切ったのです。」

 それでも絵師は納得できないようだった。

 「どうしてくれるんですか。右手がないと、私は仕事ができないんです。ふすま絵描きが私の仕事なんですよ。子どもの頃から修行をして、ようやく一人前になれたところだというのに。」

 「右手を保存しようとすれば、あなたの命はなかったですよ。命がなくては仕事にもならないでしょう。それでもよかったのですか。」

 そのときようやく絵師に、撃たれた瞬間の記憶がよみがえった。

 「そうだ、あのときここをやられたんだ」

 そう言って、左手を右手に押し当てようとしたとき、左手はむなしく空を切った。

 「ああ、ここは戦場なんですね。命があっただけでもありがたいと思いますよ」

 絵師は自分を納得させるようにつぶやいて、ふたたび眠りに落ちていった。

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 内臓が破裂した患者は、手術中、あるいは術後すぐに死んでいくことも多かった。死期が近づくと必ず彼らは、「お母さん」と小さく叫んだ。母がいない人は、「お姉さん」と叫んだ。「お父さん」と叫ぶのを父は聞いたことがなかった。ましてや、「天皇陛下万歳」などと叫ぶ人を、一人として父は見なかった。

 「あれは、映画の中だけの話じゃ。『天皇陛下万歳』と言って死んでいく人を、父ちゃんは一回も見たことがない」

 父は子どものぼくに何度も何度もそう言った。

 人は、いよいよ今死ぬなと最後の覚悟をしたとき、自分のこれまでの人生が一瞬のうちに目の前を映像となって駆け抜け、映像の最後に、ここまで育ててくれた母親の顔がほわっと丸く浮かび上がるのではなかろうか。

 これは推測ではなく、ぼく自身の体験からの話である。二十歳の夏、琵琶湖で手足がつっておぼれ、いよいよこれで人生は終わったと観念した瞬間、わずか数秒の間に二十年間の全人生が細部にいたるまでくっきりと目の前を駆け抜けたのである。はっとするような鮮やかな映像だった。映像の最後に、母の顔が大きく満月のように浮かび上がり、その顔に向かってぼくは、「せっかくここまで育ててくれたのに、ぼくはあなたの知らないところで今死んでいきます。この不幸を許して下さい、お母さん」と、心の内で叫んだのだった。すでに目の前は水の中だった。ぐんぐんと沈んでいき、自力で浮かび上がることはもはや不可能だった。

 父の話に出てくる、「お母さん」、「お姉さん」と叫ぶ人の、その瞬時の体験は、おそらくぼくの体験によく似た体験であるのだろう。

 ぼくは偶然の幸運によって死地から生還できた。だから、その瞬間の体験をこうして思い起こし、語ることができる。だが、たいていの人は語るべきチャンスをもたないまま、一方的に死の果てに連れ去られるのである。

 口から「お母さん」という言葉が漏れ出したら、もうこの人は間もなく死ぬなと、父にはわかったという。

 しかし、野戦病院とはいえ、命を何よりも大切にする点では、ちゃんとした医療機関と何ら違いはない。間もなく死ぬなとわかっても、最後まで治療の手を抜くことはなかった。最後の瞬間までベストを尽くし、いよいよ命が絶たれたと確認して初めて、すべての処置をやめるのであった。

 そのような死を、おそらく父は2ヶ月の間に何十例も目にしたことであろう。

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 もっと哀れな死があった。休む間もなくぶっ通しで手術を繰り返しても、手術できる患者の数にはかぎりがある。せっかく戦友に担がれて病院まで運ばれてきても、手術を受けられないでテントの外の地面で死んでいく人も少なくなかったのだ。

 中には、手術しても助からないことが明らかな重傷患者もいた。そのような患者は、助かる見込みのある患者よりも優先順位が下だった。

 「早くしてくれ」

 と、半死半生の息の下でうめいている彼らを見ると、父は心に激しい痛みを覚えた。しかし、手術の許容量と患者数とを思えば、事実上見殺しとも言えるこの事実を受け入れざるを得ないのであった。

 上海事変のように、壮絶な撃ち合いが何十日にもわたって小やみなく繰り広げられた戦線では、手術をしてもらえるだけでも幸運なのであった。

 軍医も看護兵も生身の人間だから、まったく寝ないで仕事を続けることはできない。ほとんど徹夜に近く手術をしたあと、3,4時間仮眠をとる。教室に戻って横になれば、全員たちまち爆睡状態になった。夜が明け、寝たりない体を起こして朝食をかき込むと、もう次の手術の準備が始まる。

 そのわずか3,4時間のうちにも、患者はどんどん担ぎ込まれていて、手術を待っている。地面に寝かされている間に死んでしまう人もいた。朝の光の中にそのような死者を見たとき、父は申し訳ない気持ちでいっぱいになったという。

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 夜は明かりが外に漏れないように、手術用テントや教室の窓には毛布が掛けられていた。明かりが見えるところには、必ず迫撃砲が飛んできた。この事実から、学校が田畑の中にさらされていて、周辺に住宅がなかったことが証しされる。

 教室の屋根に迫撃砲が落ちたことが2度ばかりあったという。迫撃砲は当たった屋根で直ちに爆発し、建物の中にまでは突き入らないから比較的安心だった。

 日常生活で一番困るのは水だった。濁水を流し続ける揚子江の伏流水によって、付近の地下水はすべて濁っていた。井戸からは濁水しか出ず、クリークも濁っていた。幸い、病院には浄水器があったので、かろうじて炊事や飲み水は濁流を浄水することでまかなえた。しかし、入浴や水浴に使うほどのゆとりはなかった。

 戦線が膠着状態にあった2ヶ月間、父たちは水浴びも洗濯もできず、垢の染みついた下着を着て、皮膚からは垢がぽろぽろ落ちる状態ですごした。

 睡眠もろくにとれず、一日中手術に追い立てられ、食事も交代でかき込むように食べる。しかし、これに不平を言う看護兵は一人もいなかった。

 前線の兵士から見れば、野戦病院は天国なのだ。ときたま迫撃砲が落ちることはあっても、小銃や機関砲からは安全であった。死の危険は前線の兵士からすると限りなくゼロに近い。その上、一日わずかとはいえ、教室という建物の中で眠ることができる。

 「前線の兵士たちは気の毒だ。絶え間なく弾が飛んでくる田の泥の中に、来る日も来る日も這いつくばって、文句も言わず戦っているのだから。」

 父は苦しくなると、いつもそう自分に言い聞かせてがんばった。

 「即死状態で田の中に放置された死体も数多くあることだろう。」

 やがて雨季が来て、毎日のように雨が降るようになった。田の泥はますます深くなっていく。これでは前線はたまらない。敏捷に移動できなくなると、ねらい撃ちされて負傷者も増える。もちろん戦死者も増えていく。

 負傷者や戦死者を補うべく、日本兵は次々に補給されていく。病院にいてもそれがわかった。船で運ばれてきた兵士が、病院の横の道を前線に向かって歩いていく姿が、一日中絶えることがないのだ。

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 戦いは今や肉弾の消耗戦の段階に入っていた。膠着状態といえば聞こえはいいが、要は、どちらが先に音を上げるか、我慢比べである。

 そして、先に音を上げたのは中国側であった。11月中旬のある日、中国軍の砲火がぱっと止んだのだ。退却し始めた。南京方面に退却しているらしい。

 日本軍は直ちに追撃した。父たち野戦病院部隊も、入院中の負傷者をすべて後送した後、日本軍の最後尾を追って南京に向かった。

 父が南京に向かう道々で見たのは、ほとんどが民間人だと思われるおびただしい中国人の死体であった。よけて歩かないと進めないほどに、道が死体で埋まっているところもあった。殺戮現場を直接目にしたわけではないものの、これが世に言う南京大虐殺の一端であったのかもしれないと、父は何度もぼくに話してくれたものだ。

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